お父さんお母さんのための モンテッソーリ講座

モンテッソーリ講座9: ~選ぶことは捨てること~

2015/06/19

「こちらの幼稚園では、文字を教えてくださるのですね。」「年長さんが三ケタの足し算や引き算ができるなんてすごいですね。」新入園の見学会で、保護者の方から驚きの声をいただきます。皆さん「数」や「言語」の教育に目が引かれるようで、数と言語の教具棚は大人気で人だかりが出来ています。確かに、モンテッソーリの数教育はビーズなどの「具体物」を用いて「抽象概念を獲得する」という体験的、可視的な方法であり、旧来の日本の数教育からするとユニークです。

 言語教育は、マリア・モンテッソーリ自身が考案した教材はイタリア語や英語などのアルファベットの言語圏での教具でしたから、私たちが日本で目にしている教具は、日本の先達の諸先生方がご苦労して作り上げられたものでしょう。系統的で関わりやすい素晴らしい教具・教材の数々です。

 これらの教具を見てしまうと、自身の子どもに早く「数や言語のおしごと」を始めてほしい。たくさん「計算や筆記」をしてほしい。と期待してしまうのも親心でしょう。保育参観などの翌日にはいつもと違う選びを子どもたちがするようになります。今まで数の教具など興味を持っていなかった子が複雑な数の教具を選んで取り組もうとしたり。きっと家で言われてきたのでしょう。「あなた、雑巾しぼりなんか家でもできるから、幼稚園では数のおしごとをしてらっしゃい!」とか。しかし、焦る必要はないでしょう。どの子も小学生になれば、3桁の計算もするし、文章や作文を書けるようになるものです。

 どれだけ高度の教具で早く大量におしごとできたかということよりも、もっと素敵なポイントがあるように私は思っています。モンテッソーリ教育の素晴らしさは、子どもに「自由」が与えられていることです。すなわち「選択の自由」。園で何をしてすごすか。今自分は何をしたいのか。自分のオプションは何か。たくさんの可能性、たくさんの教具や教材から一つを選びます。3才児の春、なかなか選ぶことができずに日々をすごしていた子も半年たってようやく積極的に自分のおしごとを選び、選んだことに人格を賭けて関わり続けることができるようになった姿を見て、成長したなと実感します。

 先日、ある高齢の方が入院され治療方針を医師から詳細な説明を受けた後、「こういう治療法とこういう治療のどちらを選ばれますか」と尋ねられ、「お医者さまのいい方にしてください」と応えたら、「今は患者様が選べる時代ですのでどちらかをあなたが選んでください。」といわれ困惑したそうです。その高齢の方は選ぶことに慣れていなかったのです。しかし現代は「選べる時代」です。たくさんの情報の中で、自分を幸せに導いてくれるものを自分で選ぶことができるのです。私たちが選ぶことに躊躇する理由の一つに、「捨てることができない」ことがあげられます。数多の選択肢の中から、一つのもの、一つの仕事、一人の相手を選ぶということはそれ以外の全てを捨てるということです。「選ぶことは捨てること」なのです。自由に自分が選んだのだから飽きたらポイではなく、選んだものに自分の人格を賭けて関わりつづけてみる。すると何かが得られ、また次の選びが現われる。人生は選ぶこと(捨てること)と選んだことに関わり続けることの繰り返しです。

 これはまさに、モンテッソーリ教育の教室で繰り返し続けられているドラマです。子どもたちは毎日毎日、数多の選択肢の中から、自分で「選び(捨て)」ます。今、自分がしたいこと、すべきことを。自分で選ぶためには、自由が保障されていなければなりません。強いられての選択ではなく、あらかじめ設定された活動ではなく、子どもが選択できるよう、自由を与えなければなりません。これは、旧来の日本の教育には馴染みの薄い発想だったことでしょう。親や教師にとって、自由を与えることはチャレンジにみちています。

 子どもは本来、正しいこと、価値ある事を選ぶ、という強い信念のようなものが無くては、子どもに自由を与えるチャレンジをできるものではないでしょう。

 モンテッソーリ教育は、もちろん教具も素晴らしいのですが、それ以上に毎日毎日、3年間、自由を与えられ、子どもたちは与えられた自由を用いて選んでいくという機会を、毎日毎日、3年間与えられているというと事が素晴らしい魅力だと私は感じています。

モンテッソーリ講座8: 「敏感期」という見方 III 感覚の敏感期

2015/06/19

「いいですか、この実は赤くなって、もっと濃い赤になって、黒い赤になった時においしく食べることができますよ。」「先生、これ食べられる?」 「もっと濃い赤色になったらね。」「先生、これは食べられる?」「もっと黒い濃い色にならないとね。」「先生、これは?」「だから、濃い、黒い赤色になら ないとだめよ。」「先生、これは?これは食べられる?」「だから、・・・」。

 春から初夏にかけて、園庭では、桑の実、ジュンベリーそして山桃と食べること ができる実が順次なりつづけていきます。園庭にある実はどれも、緑色から肌色、薄いピンク、濃いピンク、薄い赤色、濃い赤色、黒い赤色と色彩が変化し、濃い赤色にもなれば熟していておいしく頂けるのです。子どもたちには、「濃い赤色」になったら食べることができると、何度も口で説明しているのですが、なかなかどの程度なのかわからないらしく、何度も確認しに聞きに来ます。そのたび、何度も同じ言葉を繰り返していました。「分からないのかな?」と思ったとき に、そうか、私の伝え方が悪かったのだと気付かされました。

 モンテッソーリ教育は、「提供」という方法で子どもに伝えようとします。「ちょっと見ていてね。」と先生は子どもの脇でお手本を示します。子どもは先生の動きをじっと見ている。「あなたもやってみる?」と先生から言われると、子どもは見ていたままを繰り返します。これが提供という伝達方法です。幼児に抽象的な概念や言葉を先に伝えても、その抽象概念をうまくイメージすることができません。だから具体物(教具)を用いて体験的に提示します。抽象概念を獲得できたらその具体物(教具)はもう役目を果たしたことになるでしょう。「1+1=2」という抽象的な計算も、ビーズや計算板などの具体物を用いることでイメージを捉えることがでる。「まず具体物の提供から、そして抽象概念の獲得へ」という流れ。これがモンテッソーリ教育法のポイントです。

 そこで、私が摘んだ山桃の実を、子どもたちに緑色から濃い赤、黒い赤まで順に並べてもらいました。「この色になったら食べられます。」という具象の提供をしたのです。すると子どもたちは自分が取ってきた実を自分でサンプルと比べて確認していました。

 モンテッソーリは、幼児が五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)への刺激に強い感受性を持つことを観察し、「感覚の敏感期」について考察しました。

感覚の敏感期の特徴
0歳から3歳:感覚の探求とか感覚印象のため込みのために働く。
3歳から6歳:ため込んだ感覚的印象を整理し、分類し、秩序化し、頭の引き出しの中に整然としまっていくために働く。

感覚の敏感期にすべきこと
0歳から3歳:感覚教具を操作ができることを目的にするより、感覚的な刺激を十分に与えてあげることに重きを置くべき。
3歳から6歳:「感覚教具」と積極的に触れ合う機会を与える。

 感覚の発達は運動の発達と違い胎児期からかなり進んでいます。ただし、子宮という環境には視覚的な刺激が少ないため、視覚だけは生後6歳までの間に大きな発達を遂げるようです。それゆえモンテッソーリ感覚教具の中では視覚教具が占める割合が多くなっています。

 一見して小奇麗な新築マンションの一室であっても、幼児の感覚に訴える具体物が乏しいならば、貧しい環境と言えるでしょう。幼児期前期は感覚的刺 激をため込む時期ですから、公園や野外に連れ出し、多様な具体物に触れる体験をさせてあげましょう。そして、幼児期後期にはため込んだ多様な体験を、整理したり分類したりする助けをしてあげましょう。高価な知育教具ばかりが教材ではありません。野山や公園にも、たくさんの天然の教具が準備されています。

モンテッソーリ講座7: 「敏感期」という見方 III 運動の敏感期

2015/06/19

「先生、ここまで来るのに、10分で来られるところを、この子が歩きたがって、駄々をこねるものですから、30分かけて歩かせてきました。もう、このあいだから、歩きたがって歩きたがって、私がだっこしていると、激しく泣いて訴えるんですよ。もう、移動に時間がかかってしまいます。」

 お母さんによると、もうすぐ2歳になる息子は、やっと二足歩行が安定し、数日前からは「自分の足で歩くこと」にスイッチが入ってしまったかのように、取りつかれたかのように小走りで、とにかく自分で歩きたがるのだそうだ。

 人間の赤ちゃんは、馬や牛のように出生後、すぐに自分で立ち上がったり、自分で歩き始めたりすることができません。満足に歩けるようになるには1年ちょっと時間を要する生き物です。「人間は、精神的には胎児(胚子)で産まれる。」とマリア・モンテッソーリが指摘したように、赤ちゃんが自分の意志で 動かせる筋肉は、出生直後は唇と喉くらいだとも言われていいます。成長するとは、「動きが獲得されて、自分の思い通りに動くからだができていくというこ と。一人でできることが増えていくこと」だと言えるでしょう。

 モンテッソーリ教育でいう「運動」とは、跳び箱や鉄棒、球技といった体育的なものではなく、物を握ったり、つまんだり、運んだり、ひねったりといった「動作」のことを表します。

 0歳から3歳:運動機能そのものの発達に向けられる。
 3歳から6歳:身に付いた運動を洗練したり、調整したりすることに対象が向けられる。

 運動の敏感期は、その初期において、「いたずら」として現れるものです。ベビーベットに寝かされている赤ちゃんが、枕もとのぬいぐるみやおもちゃを下に落としたがるとか、ティッシュの箱からティッシュを引っ張り出すとか、トイレットペーパーをカラカラと引っ張り続けるとか、家中のコップやお皿を全部テーブルや床の上に並べ、そこに水を注ぐ とか、心当たりはたくさんあるでしょう。子どもは大人を困らせようと思ってやっているわけではありません。その時点の発達や動きの獲得に耐えがたい衝動として現れる活動なのですから、いたずらを禁止の対象にするのではなく、発達に貢献する活動の場として環境を設定してあげるべきでしょう。

1. 随意筋:自分の意志で動かすことのできる筋肉系統
2. 不随意筋:自分の意志では動かすことのできない筋肉系統 ex内臓系の筋肉,心臓

 運動とは、随意筋肉が自分の意志通りに動かせるようになることで完成していきます。

 年齢が低ければ低いほど、動きの獲得に確実にはっきりとした順番があります。この順番を知った上で、今、何がこの子の発達なのかを捉え、それに見合った活動を環境として準備することが重要です。園庭や公園では箱形ブランコやユウドウボクのような動く遊具が撤去されました。最近ではあまりに高いジャングルジムやウンテイなども危険視されています。最近の子どもは鉄棒やウンテイにぶらさがる力が弱くなったと指摘されています。昔の日本家屋は畳敷きで、 襖をあけるといくらでもハイハイできる空間があったものでした。立ち上がる前に、腕や肩の周りの筋肉を使って全身を支える運動を充分にする環境にありました。現代の狭いマンションでは、ハイハイぜずに(腕や肩の筋肉運動をせずに)立ち上がる日を迎える子どもも多くいることでしょう。だから、鉄棒から落ちや すくなってしまったのでしょう。ケガをするからと、環境からそれらの遊具を撤去すれば、それだけ環境が貧しいものとなります。

 運動の敏感期にいる幼児にとって、大切なことは、今日を生ききれる環境や時間を充分に与えてあげることでしょう。小学校高学年にもなれば、「疲れるからやらない!」と言い出すものですが、しかし幼児は体力をディスカウントすることなく、全力で走り、全身を使って遊びます。毎日、毎日を充分に全身で生ききった体験の繰り返しが「生きる力」となっていくことでしょう。

モンテッソーリ講座6: 「敏感期」という見方 II 愛着の敏感期

2015/06/19

「うちにいる子どもたちの中には、産まれる前から地獄を生きてきた子どもたちも多いんですよ。」 児童施設を訪問した時に、施設長が私にそうおっしゃいました。産まれる前、すなわちお母さんの母胎にいた時から地獄を生きてきたと。「お前なんかいらない。ほしくなかった。」というネガティブなストレ スに曝されて過ごした胎児期。そして生後すぐに育児放棄や虐待にあってその施設に連れてこられたというのです。

 人にとって、初めて出会う環境は母胎です。胎児は無防備な状態で、環境からすべてを受けて約10か月を過ごします。母親が妊娠を受け入れ、喜んで 過ごすならエンドルフィンが脳細胞から分泌され、肯定的な感情を伴って血液を通って胎児に送られていきます。人生の始まりの10か月で、人はもうすでに異なった環境を生きて、それぞれのユニークな過去を持って産まれると言えるでしょう。また、他の哺乳類の動物は産まれるとすぐに親と同じように立ち、歩き、 活動を始めるのに、新生児は肉体としては存在していても、精神的には未発達であり、二足歩行や言語の使用までに約1年を費やします。マリア・モンテッソーリは、出生後の時期を「精神的胎児期」と呼び、「心の形成期」と考えました。この時期は、子どもが、自分の精神・心を創造する内的なしごとを行う時期で、環境から多くのことを吸収し、学習していきます。そのおしごとを安心して進める原動力が「敏感期」というものだと考えました。

 幼児期前期に現れる敏感期の中でも、とても大切なものが、「愛着に対する敏感性(愛着の敏感期)」です。母が子どもを愛し、子どもが母を信頼して自 らをあけ渡すという関係性は受胎のときから始まり、誕生により「愛着」の心理的な確立の基礎ができあがっていきます。新生児は泣くことで、内的欲求を伝えようとします。そのサインを受け止め、理解し、応える(母乳を与えるとか、おむつを取り替えるとか)母(またはそれに代わる人)との応答により、泣いたら 応えてもらったという体験の繰り返しから、新生児は、自分が世界に受け入れられていること、自らを開いていくこと、すなわち「信頼すること」を体得していきます。もし、泣いても応えてもらえない体験を繰り返すならば、赤ちゃんは泣かなくなる(サイレントベービーになる)という指摘もあります。育児放棄が、 虐待と見なされるゆえんです。

 愛着の敏感期に、人生の出発点に、赤ちゃんの内的欲求に応える環境(人的な環境)が相応しくあることは、長い人生を生きていく中で、どれだけ大切な ことでしょうか。愛着の敏感期を充分に生きた後に、幼児は母からの「分離」という命からのチャレンジを受けます。これは自立(自分で自分のことをできるよ うになる)の第一歩です。いつまでもママの目の届く範囲の世界に生きるのではなく、より広い世界を活動の場とするための必要な「分離」です。

 4月の幼稚園の朝の玄関は、すさまじい泣き声にさらされます。「ママ、行かないで!ママ行かないで!やだやだ、おうちに帰る!」。日本のシステムでは、すべての子どもに対して4月始まりですから、あるお子さんにはまだ充分に愛着の敏感期が納まっていないのでしょう。心配して不安になっているお母様に 私は言います。「お母さん、あなたがうらやましい。」「どうしてですか?私の子育てが間違っていたのではないかと、不安になっているんです。」「いや、だいじょうぶ。時間が解決するでしょう。あなたがうらやましい。さっき、泣き叫ぶお子さんを、私が抱き上げたとき、お子さんはママ!ママ!とあなたを呼び求めて、全身をけいれんさせて、叫んでいたんですよ。あなたは、ひとつのかけがいない命から、けいれんされるほど求められている存在なんですよ。そう思った だけで、あなたが生まれてきた意義があると思いませんか。あなたがうらやましい。」

 「愛着と分離」。これは私たちの生涯において、何回も繰り返されるドラマですが、その基本は受胎から誕生そして新生児期にあるようです。

モンテッソーリ講座5: 「敏感期」という見方

2015/06/19

「先生、うちの下の男の子は元気すぎて、ちょっと乱暴者だからモンテッソーリ教育に馴染めるか心配なんです。外で思いっきり発散させて遊ばせてくれるほうがいいんじゃないかと。じっと教具に向かって「おしごと」なんか、うちの子にはできないと思いますよ。」

 その男の子は来春、幼稚園に入園を希望していたのだが、お姉ちゃんのようにはおとなしくじっとしていられないのだそうだ。

 ある日、園庭で姉の帰りを待って遊んでいたその彼を、遊戯室に案内して「おしごと」を提供してみた。計量カップを二つ用意し、一つの計量カップに小 豆を入れ、それをもう一つの空の計量カップに移す。「あけ移し」という、シンプルな「おしごと」であった。両手に計量カップを持った彼は喜々として、時に 奇声をあけつつ、何回も何回もあけ移しのおしごとを繰り返した。およそ15分はしていたであろうか。お母さんは「この子も集中するんですね」と初めて気づいたような、驚いた様子であった。

 これは十年くらい前のエピソードですが、この出来事から幼稚園入園前の弟妹を対象にした「エンジェルクラス」を始めることになりました。モンテッソーリ教育法に基づいた「おしごと(自主活動)」の機会を提供するクラスです。3歳過ぎて入園してくる頃には、自分のことは自己流にある程度できるようになっています。入園前にある種の早期教育の教室などに通っていたお子さんは、まだしっかりと持つことも出来ないうちに鉛筆を持たされていたのか、変な持ち方の癖がついてしまっていたりもします。立ちあがり、しっかりと歩き始めた月齢の時に、2歳くらいの「動作をたくさん身に付けていく」その時期に、しっかりと関わってあげたいという思いがエンジェルクラスを始めた動機でした。幼児の自立とは、「自分の意志で自分の身体を思いどおりに動かすことができるようになること」です。なにしろ、人間は馬や牛のように、生まれてすぐに立ち上がり走りだしたりはできません。生まれた時に、自分の意志で動かせる筋肉は、せいぜい唇と喉くらいでしょう。そう考えると、入園までの3年で、どれだけ多様な運動(自分の意志で自分の身体を動かせる)を身につけてきたことか。運動の身につけ方には、正しい順序があり、その順序をたがえて教え込むとストレスになったり、妙な癖が付いてしまったりするものです。

 子どもが自ら「集中」しているなら、それはストレスでも強いられてされていることでもない状態にいるしるしでしょう。では、どのような時に「集中現象」は起きるのでしょうか。プログラム的に仕組んでいつでも、どこでも、誰にでもおこるものではありません。その子に固有なある時期に、ある特定な事柄 に対して現れるものです。幼児期の子どもは、ある特定の事柄に対して、とても強い感受性(こだわり)が現われ、優れて敏感になります。敏感になったことがらをいとも簡単に吸収し、身に付けてしまいます。

 マリアモンテッソーリは、彼女が出会ったオランダの生物学者ド・フリーズ博士の影響を受けました。フリーズ博士によると、ある種の蝶の幼虫は羽化後の短期間、光に対して強い敏感性をもち、強い光の方(枝先)に移動する。そこには新芽があるのでそれを食べる。しばらくすると光への敏感性が薄れていく。 そのころになると、新芽でなく肉厚の葉でも食べられるようになっている。

 モンテッソーリは、人間の幼児期に現れる鋭い感受性を「敏感期」という概念で説明しました。ある時期に、研ぎ澄まされたような敏感性をもち、ある時期になるとその敏感性が落ち着いていく。愛着の敏感期、運動の敏感期、感覚の敏感期、小さいものへの敏感期、話し言葉の敏感期、秩序の敏感期などが、竹の 子のように現われてくるのです。敏感性とは子どもの環境の中にある事象との関わりを通して、「興味」や「関心」として表れてきます。親や教師は子どもを観察することで、敏感期に配慮することができるでしょう。

 次回以降、一つ一つの敏感期を取り上げてお話させていただきます。

モンテッソーリ講座4: 「まねっこ」の天才 - 模倣期を生きる幼児

2015/06/19

「えみちゃん、きちんとお片付けしてくださいね。」
「モー、さいあく!」
「まぁ、なんてこと言うのかしら。先生驚いたわ。だれから教わったの。」
「ママが、よくいうもん。」

 幼児の心のありかたを、マリア・モンテッソーリは「吸収する心」と表現しました。大人の学習方法とは違い、幼児は環境からそのままを吸収する。あたかも「スポンジが水を吸い込むように、カメラが被写体をあるがままに記録するように」、環境をそのまま吸い取るのです。特に3歳頃までは、無意識的に吸収してしまします。この時期に後から身につけようとしたらかなりの苦労が必要なことを、いとも簡単に吸収してしまうのです。3歳を過ぎると、今度は無意識的にではなく、むしろ意識的にそれまで環境から受け取ってきたことを一つずつ整理し分類し、言葉に置き換えるようになっていきます。

 発達心理学的には「模倣期」と言われているこの時期、一番の「まねっこ」の対象はお母さんです。お母さんの話し方や振る舞いまでもまねせずには居られないのです。ですから、「こうなってほしい」と思ったら、お母さんがそうすることです。ゆっくりとお話できる子どもであってほしいと思ったら、お母さんがそういう話し方を心がけること。挨拶する子になってほしいと思ったら、挨拶させるのではなく、自分が美しくごあいさつする姿を示すこと。子どもが吸収すべき「モデル」が環境に示されていないのに、いくら口で「挨拶しなさい!」と指示しても困ってしまうでしょう。本の好きな子になってほしいと思ったら、お父さんやお母さんが子どもの環境の中で本を読む姿がある必要があるでしょう。自分自身に「無いもの」を、自分の子どもに求めてしまう「無いものねだり」は、酷なことです。子どもにも自分自身にも。子育てすることの恵みは、自分自身を生き直す(気づかされる)機会を得ることだと感じます。

 ある方に皮肉交じりに言われたことがあります。「モンテッソーリの先生って、子どものそばにただ座っているだけで、何もしないんでしょ」って。子どもを自分に引き付け、自分の意図に沿って集団を動かすスタイルの教育法ではありませんから、「何もしていない」ように見られたのでしょうか。モンテッソーリ教育において、「教師」の役割は、幼児にとっての「ロールモデル(お手本)」であることです。模倣期にある幼児にとって、どう話すか、どう歩くか走るか、どう手先を使うかを、口先で、言葉による説明を多用することなく、振る舞いを通して提示するのです。

 時として私たち大人は、ことば数多く、一度にたくさんの指示を幼児に浴びせかけてしまいます。相手が青少年ならともかく、幼児に対しては、お手本を示すことを通して導くことがより有効な道でしょう。「ちょっと見ていてね。」「わかった?。同じようにやってみる?」「ちょっとちがうみたいよ。もういちど見ていてね。」「そう、すごいわ。一人でできたじゃない。」

 昔は子どもと大人が生活する場所に、吸収するモデルや対象が豊富にありました。私もおじいちゃん、おばあちゃんからたくさんのことを日々の日常生活の中で吸収したことでしょう。家の周りの原っぱや畑も私の吸収する心を充分に満たしてくれる世界でした。大家族や善良なご近所さんも、その中で飛び交う言葉や振る舞いも、吸収の対象になっていたことでしょう。現代の生活は一生に一度しかない「無意識的に吸収する心」の時期に、その対象があまりにも貧しすぎるように感じてしまいます。ですから、極端な早期教育に走るのではなく、豊かな環境の中に子どもを連れだしてみましょう。月謝や報酬の見返りからではない、ただ善意や人情で関わってくれる大人たちの多様なモデルの中での関わりを大切にしてみましょう。そして、言葉や口先だけでなく、振る舞いを通して幼児に伝えていくように心がけてみましょう。きっと自分が生きなおされます。

モンテッソーリ講座3: 内的動機づけとしての敏感期

2015/06/19

「ジュンちゃん、もう行きましょ。聞こえてないの?そんなことしてないで、さぁ、立って!いつまで同じことしてるのよ。」

 お母さんはついにジュンちゃんの手を取って立ち上がらせた。すると、さっきまで一心にかがんでマンホールの小さな穴に、砂を入れていたジュンちゃんが、駄々をこね始めた。「いや だ、いやだ」。小さな穴に砂を入れる活動は、どうやら単なる暇つぶしではなく、せずにはいられない、いのちからかりたてられた「おしごと」なのだろうか。

 幼児を観察していると、「何がそんなに楽しいのだろうか?」と不思議に思えるほど些細な活動に、集中して取り組んでいる姿にでくわします。サッシの 桟に一つ一つミニカーを並べたり、中古車の広告を切り抜いてノートに順序良く貼ったり。ビンにビーダマを落とす動作を繰り返したり。その集中した姿は、ま るで職人や匠が、「おしごと」しているような崇高ささえ感じさせられることがあります。

 マリア・モンテッソーリは、幼児を観察するなかで、目からうろこの体験をしました。子どもは、いつも落ち着きなくはしゃぎ回り、発散状態を好むのだという先入観を一変させたのです。「子どもは集中することを欲し、静けさと秩序を好むのだ」と。 

 人間は誰でも、生涯において、「自立」という課題を命からいただいて産まれたのでしょう。お母さんの体内に宿った瞬間から、自立へのチャレンジが始 まったかのようです。出生という体験は、人の生涯にとって最初で最大の自立の体験と言えるでしょう。一体化していた状態から、母子分離して、一人でできる ようになること、動作もそして情緒的にも。

 しかし、チャレンジには、結果的に間違いや失敗もつきものです。マリア・モンテッソーリは「私のところに来るほとんどすべての子どもが、何らかの逸脱発達をしている」といっています。

 残念ながら、子どもが生まれ育った環境が、完璧ではないのです。人的環境(お手本)である親も、初めての子育てに試行錯誤であったり、生活のために 充分な関わりを持てなかったりします。子どもを取り巻く物的環境もふさわしいとはいえません。大人に適した物が、大人のいいように配置されている環境の中 で子どもは育ちます。都会では自然環境も決して豊かであるとはいえません。宗教的な言い方をすれば、私たちは「世の罪」に染まって、蝕まれて生活していく ので、悪しき結果を招いてしまうことになります。

 逸脱発達を乗り越え、正常化(あるべき姿を取り戻す)のための鍵をモンテッソーリ教育は「集中の体験」に置きました。子どもは集中現象を体験することの繰返しで自立という成長の方向にまっすぐに進んでいくことになるのです。

 この集中現象は、外的には幼児を包む「ふさわしい環境」、内的には幼児が直面している「敏感期」、この相互作用、あるいは「深い出会い(エンカウンター)」によってより顕著に生じるものです。
ふさわしい環境とは、

1. 子どもが自分の意思で活動できるように、自由が保障されていること。
2. 子どもが無理なく身体を使って活動できるように、用具や備品が子どもサイズであること。
3. 秩序正しく整然と、美しく整えられていること などです。
私たちが普通に生活していても、子どもには大きすぎ、長すぎ、重たすぎなど、子どもの自主性を奪う条件がそろってしまっていることがなんと多いことでしょうか。

 まずは、環境を見直し、整えることを大切にしてみましょう。子どもが集中する姿に、私たちもハッとさせられることでしょう。

モンテッソーリ講座2: 駄々をこねる子、強情な子?

2015/06/19

「えみちゃん、今だけはこの赤いスヌーピーさんのコップを使ってね。」「やだ!ミッフィーさんの!」「今ね、ミッフィーさんのコップは、洗い桶に入ってるのよ。見て、あそこにあるでしょ。だから、今はこれでいいでしょ。」「やだ、やだ、私のコップがいい!」「だから、いま洗ってるの。だから、今だけ、このコップ使ってちょうだい!」「やだ!わたしのじゃない!」「だから、・・・もう、強情な子なんだから!・・・」

 こんなやりとりをよく経験されたことはないでしょうか?お子さんが1歳くらいになると、「何かのこだわり」のようなものを強くもっていくようです。 私のものが決まっていたら、それ以外はいやだとか、いつもの順番でないといやだとか。親や大人を困らせることが多々あります。そんなときに、つい大人は 「駄々をこねる子」「強情な子」「執着心が異常に強い子」「融通が利かない子」というレッテルを貼ってしまうことがあります。

 今から約100年前、マリア・モンテッソーリさんは、こんなことを書き留めています。

「6か月の女の子がいる保育室に見学に来た女性が、日傘をテーブルの上におきました。とたんにその女の子が泣き出したのです。女性は日傘を触りたいのだと思ってやさしく女の子に差し出しました。女の子は激しく泣き出 しました。女の子の母親が入ってきて日傘を隣の部屋に移しました。するとその子はとたんに静かになりました。女の子の苦痛の原因は、テーブルの上の日傘だったのです。見慣れている秩序、あるべきものがいつものように置かれている絵を日傘が壊していたのです。これは、きわめて早期に現れる一般的な「駄々」 の一つです。」

「1歳半の男の子をつれて、家族で山道を散策していました。歩き疲れた男の子を、母親は腕に抱きあげて歩き続けました。暑くなってきたの で、母親はコートを脱いで腕にかけ、男の子を抱きながら歩き続けました。すると子どもは泣き始めました。泣き声が大きくなって、母親も一緒にいた大人たちもみな精一杯なだめましたが、ますます乱暴に泣きじゃくりました。そこでわたし(マリア)は、母親に言いました。腕にかけているコートを羽織ってくださいと。すると子どもは泣きやみ、「ママ、コート肩」と何度も幼児語で繰り返しました。その子はやっとお母さんが自分の言うことをわかってくれたと言いたそうでした。それから平穏のうちに散策がつづけられました。母親の無秩序が、子どもを不安にさせる葛藤の原因になったのでしょう。」

 私もこんなことを体験しました。復活徹夜祭の長いミサの後、祭壇前で集合写真を撮ろうとしていた時、一人の幼児が激しく泣き始めました。お母さんや 周囲の大人が何を言っても、益々激しく泣き続けました。教会に来る前に、ミサが長いからお母さんはその子に、お気に入りの水筒にお茶を入れて持たせようと したのですが、慌ただしく家を出たため、その水筒を置いてきてしまったようです。教会で「ごめんね、あなたの水筒、おいてきちゃったわ。だから、このお茶を飲んでね」と、お母さんがお茶のペットボトルを差し出すとその子はとたん泣き出したのでした。

 この、幼児期特有の、1. 物を置いてある場所や、何かを行う場所にこだわる。2. 何かを行う順番がいつも決まった通りでないと気がすまない。3. 約束したことがたがえられると我慢ならない。という状態を観察したモンテッソーリは、この子どもの「秩序感」に対する研ぎ澄まされた敏感性に応えることで、情緒的に安定した教育(しつけ)が行えると考えました。秩序の敏感期にいる乳幼児にとって心地よい環境を設定し、その環境の中で生活することで、子どもは情緒的に安定して発達していくものです。モンテッソーリ教育というと、何か特別な機能感覚教具だけを取り上げて教育をする「早期・英才教育」であるかのような誤解がありますが、大切なことは環境であり、日常生活です。そして、幼児にとって最も重要な環境は、人的環境すなわち親や先生なのです。大人が情緒的に秩序と安定の中で生きていることで幼児に心地よい環境を提供する第一歩が整います。

 「子育てすることの最大の恵みは、親や教師が自分の人生を生き直すことができる機会を与えられていること」だと、常々感じさせられます。

モンテッソーリ講座1:「違い」を前提にした関わり

2015/06/19

「あなた、なにそんな駄々をこねているの。お姉ちゃんはそんなわがままなこと、言ったこと無かったわよ。ほんとに、あなたはいつもそうなのだから。」

 若いお母さんが次女の振る舞いに手を焼いていました。小学生になったお姉ちゃんはおっとりとした優等生タイプ。お母さんの言うことに従順なお子さんでした。次女はまったく逆。同じ親から産まれ、同じように育てていても、これほどまでに違う性格に、親も身近な大人たちも戸惑うことが多々あるのでしょう。性格や気質が「違う」ということは、たびたび私たち人間コミュニティーの中で「障害」となります。特に「みんな同じで」という「平等・一斉」の価値基準の強かった日本社会において、「違い」を認め、積極的に評価することは難しいのかもしれません。特に兄弟姉妹の間での比較により、根拠のない劣等感やコンプレックスを持たされてしまっている人は少なくありません。

 私の母が子育てしていた時代(昭和40年前後)、「どのようなお子さんに育てたいとお考えですか?」と教師が尋ねれば、母親たちは判で押したように「世間や皆様の迷惑にならないような子どもに育ってほしい」と答えたものでした。「周囲や場の常識や規範から外れないように」、「みんなと同じことを同じようにできること」が正しいしつけでした。ですから、公教育の場で、子どもを「平等」に扱わない教師は親からの信頼を失い、「特定の子どもに肩入れや特別な配慮をすること」はえこひいきと見られてしまいました。戦後の義務教育では、個人の能力差を見ることなく、「飛び級も落第もない平等主義」が前提にあったよ うです。

 今日、少し状況が変化してきました。「どのようなお子さんに育てたいとお考えですか?」と今のお母さんにたずねると、「この子の個性を生かしたい。この子らしく育っていってほしい」と、お答えになります。「一斉」から「個性」重視に価値基準が移行してきたのかも知れません。しかし、一方で、「早期教育」 や「小学校受験」への加熱などの現象を見ると、「違い」や「個性」を尊重する確固たる姿勢が持てているとも思えません。やはり画一的な価値観やメディアが 煽る幸福観の影響から抜け出せないでいるのも事実でしょう。

 カトリックの人間観は、「人は受胎した瞬間から、固有の尊厳を持っている」ということを前提としています。「固有の尊厳」とは、この世に二人といない (スペアーのない)、ユニークで独特な存在であり、他の人とは違うその人だけの輝き、神から与えられた使命を持っているということです。ですから、人間 の存在価値は、他者との比較や競争で優劣が生じるのではなく、「生命(いのち)が託された」ことにより、すべての人が既にその価値を有していると考えま す。それゆえ、人は、自らが託されている「固有の独自性」を発見し、それを生きることによって真に自己実現あるいは自立がなされていくと考えます。I’m special! You are Special! 同じ親から産まれても、双子であっても、違った(固有な)存在なのです。

 この命の固有性、個性の違いを、困ったこと、大変なことと見なして一斉に均す教育ではなく、積極的、肯定的に受け止めた教育方法(メソッド)が、カトリック教育界ばかりでなく日本の教育界に今日ほど渇望されている時代はないように思います。

 その一つの意味ある提案、オプションとして「モンテッソーリ教育法」というものがあります。今から100年前に、イタリアで、女医であったマリア・モン テッソーリは障害児への治療的な働きかけから始めて、乳幼児を観察するなかで発見していったことを、試行錯誤して作られた教具や環境を提供することで、子どもの個性を尊重しつつ自立へと働きかける特異な教育法を体系化していきました。今日、時代を超えて世界中で導入されている教育法です。日本でもモンテッ ソーリ教育を取り入れた幼稚園、保育園、子どもの家などが増えてきました。しかし、100年前の、イタリア文化の、子どもの家という形態で誕生した教育法を、現代の、日本社会の、幼稚園・保育園という形態で実現しようとすれば、「解釈と適応(アダプテーション)」が必要となります。解釈の差やアクセントにより、現場で実現されている状況が違ってきます。それゆえ、日本には、二つと同じモンテッソーリ園がないという現状となり戸惑いを与えています。また、実施園の地理的偏りがあり、良いとはわかっていても、近所にモンテッソーリ園がないとあきらめてしまう親も多いと聞きます。

 このホームページ上で、幼児との関わりを生きる上でのヒントとなることを提供できるよう意識してお話させていただきます。

 幼児との関わりを生きるポイント1:「違い」は豊かさ。兄弟や周囲のお子さんと「比較」するのではなく、その子の命を喜び、その子を観察してみましょう。